最近友達からパートナーができたという報告をもらった。
大変めでたいことで、今までの友達の苦労も知ってるからよかったな、と心から思う。
その後ふと、シャワーを浴びながら自分のことを考えた。私がこの先人生で(恋愛ベースの)パートナーと呼べる人と出会うことはあるのだろうか?と。
気付いたら私も20代も後半で、結婚していく友達も本当に増えた。この間もSNSを開いたら2人目の妊娠を知らせる同級生の投稿を見て腰を抜かしたばかりだ。
同世代とはいえ、みんなそれぞれの時間軸でそれぞれの人生があり、ライフステージが変わっていくことを実感してる。
もしこれがミソジニーな作者によって書かれた物語なら、私はそういう人たちを見て「先を越された」と感じたり、焦ったりするんだろう。
でも正直なところ、そういう感情は一切ない。それよりもただ子供時代が本当に終わり、時が過ぎていくのを肌で感じるし「感慨深い」という表現のほうが正しいと思う。
さて、元の問いに戻るけれど、私にパートナーが出来る日は来るんだろうか。答えはわからないに尽きるけど、少し考えてみたかった。
まず私は自分を100%異性愛者だとは思っていないし、パートナーがどんな性別の人になるのかは分からない。
あとこれはこの先も変わらないことだけど、子供を産むつもりはない。子育ては経験してみたい気もするので、その場合は養子を迎えるという選択をすると思う。これはもうかなり前から決めてることだ。
でもそれも「人生のやりたいことリスト」の中で上位ではない。逆に上位は物語を作ったり、制作会社やロマコメ専用の出版社、公共性のあるメディアを作ったりすることだし。図書館も作りたい。そしてこんなことを書き始めたらパートナーの話から完全に脱線してしまう(この記事は私の恋愛観の縮図)。
ブログを長く読んでくれている人は薄々気が付いているかもしれないけど、私はロマコメに一生を捧げると決めた人間にして、全く恋多き人ではないんですよ。。
でもこれも理にかなっている気はしてる。なぜかというとロマコメは結局「(だいたいシスジェンダーの)女性が主人公の、恋愛、お笑い要素が少しでも含まれている作品」という雑な「女性映画」ジャンルで、内容はわりと何でもありなのだと認識してるから。
だから「ロマンティック・コメディ」といえど作品の中で恋愛は人生のおやつ程度、なくてもあっても良い程度に描かれてるものが意外と多くて、結局主人公が一番大切にしてるのは自己実現や女友達なんだよね。
だから恋愛にそこまで積極的じゃない私がロマコメ好き、というのも実は理にかなっているわけです。はい。
で、結局私はパートナーが欲しいのか?という話なんだけど、この自分で立てた問いへの回答としては「今はNo」って感じ。
昨日もこのブログに書いたように、今私はわりと大変な日々を送ってる。もしつらいことを隣で一緒に少し背負ってくれる人がいれば、少しは楽になれるのかもしれない。でも、なんかその気になれないんだよね。
今の状況で相手をそこまで巻き込みたくないというか、恋愛は恋愛がいいなって思う。
でも別に恋愛ベースのパートナーに頼ったって何も悪くないし、というか一般的に恋愛ってそういうことが推奨されてるじゃない?でも個人的にそれに乗り切れない部分があるんだと思う。恋愛のことが分かっていないと言われればそれまでだけど、恋愛ってそういうものなの?って問いがいつも残る。
だから今の状況を恋愛で解決してもらうのは嫌で、そもそも多分私は自分の人生のコマを自分で進めたいんだと思う。
とはいっても今、色んな人の助けは当然借りてるわけで。変な言い方だけど恋愛には「借り」を作りたくなくて対等でいたい、みたいな気持ちが強いのかもしれない。悪い言い方をすれば「弱みを見せたら負け」的な恋愛への信用のなさがあるとも言える。
それも「恋は神聖なもので理詰めでは決して語れない。搾取関係にあったとしても全てが無効化する」みたいなロマンティック・イデオロギーが嫌いだからだと思う。そしてこのイデオロギーは長らく家父長制の中で女性の人生そのものを搾取するのに利用されてきた。
実際それに反抗するようにロマンティック・イデオロギーが通用しない関係性を女性側の視点から描いた作品を観てきている私にとって、それは当然のことだと思う。大好きなメグ・キャボット作品も、恋愛の名の元に女性が搾取されることを決して許さない。
そしてこういう作品を通して授けられた先人女性の知恵が、私を恋愛における搾取から守ってくれているのだという実感がある。「理想」が高くて悪いことなんてひとつもない。相手を凌駕しないように自分を小さく見せて、無理やり合わせる必要なんてないのだから。
だから将来的にはつらいことも幸せなことも分け合えるパートナーはいるといいなと思うけど、今のこのつらさは共有しなくていい気がした。もう少し自立した状態で出会いたいと思う。これは完璧主義的かな?
まあでもとにかく私がこんなことを考えてる間に、どんな状況であれ息をするみたいに恋を続ける人というのはたくさんいて、すごいなあと思う。才能だし、私はそういう才能を持たなかった自覚はある。
ただ、なんとなくだけど、あと10年後くらいの私にパートナーがいる気も、する。なぜなら私は結局それを望んでいるから。
同時に、それが恋愛ベースである必要はないとも思う。友情でもよくない?みたいな。正直セックスするかしないかで関係の優先順位が変わるなら、それは馬鹿げてると思う。そもそも友情や恋愛って意外と曖昧な概念で、そんなに明確に分けられるものでもないのでは。
それでもとにかく、その人に会った瞬間にこの人だ、と分かる気がする。
多分その人は私がどういう人間なのか一から説明しなくても、ある程度分かってる人だと思う。その時の私のキャリアを見たら分かることだし。
わりと現実的ではないですか?そうでもない?
なにせよ、私もそこはロマンティックな考え方なのかもしれない。恋愛にせよ、友情にせよ、人と出会うこと自体が奇跡であり、ロマンティックなことだと思う。
“Above all, be the heroine of your life, not the victim. “
「何よりもまず自分自身の人生のヒロインでいなさい。被害者ではなく」
ロマコメ映画の伝説、ノーラ・エフロンの言葉でこの記事を終わります。
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