今思えば私が10代で、地元で、実家に暮らしていてどこにも行けなかった頃、救いになってくれたのはK-POPや洋画、全部外国のものだった。
とくに私が今もK-POPを好きな理由は、多くの作品から世の中への信頼を感じること。受け取る人を舐めてないというか、どうせわからないだろみたいなのがないところ。そして「良いもの」を一部の恵まれた人たちで独占しようとせず、徹底的に分配しようとするところ。
「これいいんだけどみんなもそう思わない?」みたいに。
でも逆を言えば、そういうものを愛す気持ちの根底にあるのは、あの頃この国にどれだけ「良いもの」があろうと誰かがそれを教えてくれることはなかったし、何もしてくれなかったじゃないかという絶望であり、怒りだ。
ここで幼なじみとの再会を書いたのも、貧困地域で育つことのハンデを矮小化したかったわけではない。ああいうところで育って決死の思いで離れて友達と疎遠になり、また仲を深めるのは簡単ではないはずだ。
だけど、もう、なんだかんだ言ってもここにいるんだから、大丈夫だよな?みたいに世の中は進んでいく。昔のことをいつまでも言ってたってしょうがないから、先に進め、と。そんなことは重々分かっている。それでも、先を見ることさえ難しいほどハンデがある人間がこの世にはいる。
そしてこういうことを書くと弱者ぶってるとか、嘘をついているとか、自己責任だと言い出す人たちまでいる。やっと口を開こうとした人間の口を塞いで、心を殺す。この世の中は不公平だから、そんな人間でさえそこそこいい暮らしをして安らかに死ねるんだろう。
もう誰とも分かり合えない気がする。結局は体験が物語として消費されるばかりで、実際に体験してみないことには誰も、本当のことは分からないのだ。実際誰にも、あの家から、あの地域から、抜け出そうとする苦しさがわかるとは思えない。だけど世の中は、そんなことなかったみたいに進んでいく。
私はそのことをずっと書こうとしていたけれど、なんでそんな目に遭った人間だけがいつまでも過去のことを考え、伝えようとしていかないといけないんだろう。もうすべてに疲れた。もっと恵まれた環境に生まれた人たちはきっとそんなことより、未来のことに頭を使っているのだろう。過去ではなく。
今の情勢をどうすればいいかとか、特権の立場にある人間こそ真剣に考えればいい。知る努力をするべきだ。もう何かを伝えたり、情勢を良くしようとする力は今の私に残っていない。
そして日本に、東京にいるのは、同じ国で育ち、同じ言葉を話すのにこんなに違うのか、と、何度も格差を日々体験をすることでもある。生きているだけで心が殺されるみたいだ。外国に行くほうが、今自分は外国人だから、というふうに割り切れるのかもしれない。
いや、そんなこともないだろう。どこに行っても過去はついてくる。
もちろん、私は自分が世界で一番不幸な人間だとは思っていない。相対的に見たら、私よりひどい目に遭っている人はたくさんいるだろう。だけど、自分にとって今私は世界一不幸な人間だ。心の傷は目に見えないから誰にも分からないだけで、ふと、ああ今血を流して歩いてるんだ、と思う時がある。
でも、相対的に見て私より遥かに恵まれていても、自分は世界一不幸だと苦しんでいる人はたくさんいるのだと思う。だから、その人の属性とか外っ面だけでその人のことをジャッジするべきではないと思っているし、私もジャッジされるべきではないと思う。矛盾してるかもしれないけど、心がけとしては忘れずにいたい。
Comments