このブログを書き始めてから現在私が困難な状況にあること、そしてその原因を一言で説明するのが難しいゆえに「詐欺に遭った」とだけ書いてきましたが、その詳細を大学卒業後からの時系列順に書いていきたいと思います。
読んでいてあまり良い気分にはならないと思うので気持ちの弱っている人は注意してください。
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まず、このブログに今まで何度も書いてきたように私は貧乏な家庭に生まれながらも運良く大学に行って、そこで私は別の社会的階層に移動する一番大きなチャンスを得たはずだった。なのに、なぜそれを逃したのか。
大学を卒業した当時私は23歳で、留学先のアメリカから帰国したばかりだった。もちろん嫌なこともあったけど、自分に合ってるように思ったし、友達もいたし、またすぐアメリカに戻りたいと思っていた。
というのもそれは奨学金で機会を得た正規の1ヶ年留学で、現地では留学生というよりも9月入学の新入生と同じ扱いになる。だから私だけじゃなく、みんな全部が初めての経験で、交流するイベントやパーティなんかもあるから、そこでたくさん友達ができる。
生活レベルでフェミニズムやマイノリティの権利に対する意識の高さを体感したのも初めてで、学ぶこと全てが新鮮でとにかく楽しかった。
だから学校にいるとき、私だけ来年には帰らなければいけないことがとても悲しかった。私以外のみんなは来年もここに通えて、勉強が続けられて、卒業もできるのに、と何度も羨んだ。
編入もできただろうけど、年間800万円以上かかる学費や寮費は到底払えない。ということでアメリカ生活に未練タラタラのまま帰国した。(留学先のお金持ちっぷりについてはこの記事に詳しい→https://www.tsscarlet.com/post/20181111)
さらに個人的な話をすると帰国後当時、貯金を切り崩して暮らしていた実家の家計にとうとう限界がきていた。家のローンも払えなくなっていたし、結果的に母は日々の生活費のために当時住んでいた持ち家を売らないといけなくなった。なんだかんだ自分が生まれ育った家だったから思い入れもあって、とにかく悲しかった。
でも同時に私は母子家庭の一人娘だから、家父長制の中での長男みたいに、この家を養っていくのは自分だと子供の頃から思っていたし、ずっとそのつもりで生きてきた。
でも同時に就活が苦手で一般的な会社で長く働くのが難しいというのも、そして自分に合った仕事で稼ぐにはまだ勉強と時間が必要だというのも分かっていた。
とはいえど、母が家を売ったお金をこのまま食いつぶすだけでは、いつかまた終わりが来るのも目に見えてる。
考えた結果、そのお金の一部を自分に投資してアメリカかカナダの大学院に進学し、そこから自立してお金を稼ぎ続けて家に還元する計画を立てた。
そんなに大きな額じゃなかったけれど、探せばいくらでも学校なんてあるんだし、奨学金を出してるところも多いから計算して予算内に収まる場所を探せばいいだけだった。
そんな時、家を売る際の手続きの諸々が分からないと悩んでいた母は知人に紹介され、法律に詳しいという男性Eと知り合った。そしてその流れでふたりは親しくなった。家を売るのは母が決めたことで、その全ては母に任せていた。その数ヶ月後私は母と共にEの家に招かれ、そこで私はEに留学計画の話をした。
Eの家にはたくさんの本が積まれていて、中には法律関係の本や洋書もあったし、何より話が合った。特に政治的な話や、この場所がいかに文化的なものから切り離されているかとか。
Eは自分は元外交官で、ハーバード大学を卒業していると言った。今考えてみるとどう考えても怪しいのだけど、話の上手さや知的な雰囲気から私はそれを信じた。
それから数日後、母親経由でEが私の留学費用を援助したいという連絡が来た。信じられない思いだったし、今思うと信じちゃいけないんだけど、それで私は歓喜してしまった。
70歳を超えているEは「お金を持って死ねないし、日本はアメリカみたいに個人でももっと若者に投資する文化があるべきだ」と言った。
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その頃から母はEに毎日ご飯を届けるようになっていった。親切心でというよりは、娘の留学費用を出してもらう人が死んだら困るという、どちらかといえば利己的な理由からだ。
予算内で僻地の白人しかいないような学校に行くしかないと考えていた私は思わぬ申し出に感謝した。
それなら予算を気にせず今までずっと行きたかったニューヨーク大学の映画学科があるティッシュ・スクール・オブ・アートを目指せると思い、泣きそうなくらい嬉しかった。大好きなスパイク・リーが教壇に立ってる場所だ。
それから何度か話し合いをした結果、同居している祖母との折り合いが悪いのもあって、東京で一人暮らしをすることになった。
というのも当時の私は帰国したばかりで逆に自分の英語力に自信を失っていた。大学院となればもっと難しい英語になるだろうから、入学する前にさらにしっかり英語の勉強をしたかった。
そんな時に東京にニューヨーク大学の分校(現在は閉鎖)があるのを発見して、そこで大学の願書の提出やエッセイを手伝ってもらったり、入学に必要なTOEFLの授業を受けようと思った。なによりニューヨーク大学直営なのだから、入学に必要な情報が集められるだろうと。
そのことをEに説明するとEは私の申し出を快諾して、それに必要な学費や住居費、生活費ももちろん必要なお金は自分が全部出すと言った。
それからバタバタと急いで引っ越しをして、最初は一人暮らしや街に慣れるのだけで数ヶ月がかかり、学校では課題をこなし、気づけば1年が過ぎていた。
「シスターマガジン」という私と友達が立ち上げたマガジンを忙しく運営していたのもこの頃だ。留学の準備をしつつ取材をしたり受けたり、忙しかったけれど充実していた。
それから1年経った頃、細かいきっかけは思い出せないけれど、母親にお金のことについて電話をした。今まで仕送りで一人暮らしをするなんて贅沢な体験をしたことがなかったから単純に不安だったように思う。母親はそれまでずっと金銭的なことについて特に何も言わなかったから、私は当然Eが約束したようにお金を出しているんだと思っていた。
そうしたら驚くことに、まだお金はもらっていないという。私はあまりに驚いて、「じゃあ今までのお金はどうなってるの?!」と問い詰めると、母が私たちの家を売ったお金でまかなっているという。
寝耳に水、だけど、なぜそんなことになっているのかと聞いたらEの銀行口座は権力者によって止められてる、とEは言っているらしい。でもあと数週間すればどうにかなるからもう少し待ってくれとのことだった。
私もそこでおかしいと気がつくべきだったけれど、ここまで来たらもう引き返せないという思いのほうが強かった。
これまでのことは嘘であってはならないし、家賃や生活費、学費など、ここまでたくさんお金を使ったからには、この先を出してもらわないわけにはいかない。
それからは不安な日々が続いた。毎日母親に電話をしてはその後どうなったのかばかりを確認した。
まだ動きがないとか、今度は別の人が現れて別の口座も凍結されたとか、どんどん新しい話が出てきて、それを聞くたびに体調が優れない日が続いた。
そんな中でもニューヨーク大学出願の準備は続いていて、私は着々と必要な書類を取り寄せて、エッセイを書き上げた。
そして今度Eは大学の入試担当者と毎日電話で私の入学交渉していると言い出した。そして必要な書類が揃ったら大学に直接郵送すればいいとのことだった。
詳しい人ならすぐピンとくると思うけれど、今アメリカの大学入試はだいたいオンラインが主流で、書類を送るにしてもいきなり願書を送りつけるなんていうのはありえない。特にニューヨーク大学では。
ニューヨーク大学のホームページにもそう書いてあったのに、当時の私はEを信じて何時間もかけて書いたエッセイや書類をEに言われた通り大学宛てに送った。もちろん返事なんて来るはずがない。
それからしばらくしてEにの私のTOEFLの点数が足りなくて、エッセイの出来がよくなかったから入試には落ちたと告げられた。電話で入学担当者がそう言っていたそうだ。
しかもエッセイについては電話越しで追加の提出を求められたらしい。そしてEが代わりにその追加エッセイを書いて提出したら高評価で、合格ギリギリまでいったけれど、私の出したものがダメすぎて私と同時に一つの席を競っていた他のアジアの国の男の子が合格した、という話だった。
もちろん私のTOEFLの点数はニューヨーク大学が公開している合格に必要な基準を満たしていたし、エッセイはニューヨーク大学(東京分校)の先生に何度も指導してもらって書き上げたものだ。
そしてなによりもまず、入学できなかった理由や他の応募者のことを大学のアドミッションオフィスが教えてくれることなんて絶対にない。
だんだんEに不信感を募らせていった私は家の貴重なお金を浪費していることが怖くなり、一度実家(祖母宅)に帰ることを決めた。
家を出てから1年半以上が過ぎていた。
②に続く
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