このブログを書き始めてから現在私が困難な状況にあること、そしてその原因を一言で説明するのが難しいゆえに「詐欺に遭った」とだけ書いてきましたが、その詳細を大学卒業後からの時系列順に書いています。
【注意】今回の記事は引き続き自死を扱っています。心の状態によって読むのが大きな負担になる可能性がありますので、注意してください。
相談窓口をお探しの場合、厚生労働大臣指定法人・いのち支える自殺対策推進センターが推奨している案内先を置いておきます。
・#いのちSOS(電話相談)https://www.lifelink.or.jp/inochisos/
・よりそいホットライン(電話相談)https://www.since2011.net/yorisoi/
・生きづらびっと(SNS 相談)https://yorisoi-chat.jp/
・厚生労働省 相談先一覧
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/soudan_info.html
・いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧 https://jssc.ncnp.go.jp/soudan.php
過去の記事はこちらから
第①回
第②回
第③回
第④回
第⑤回
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それからしばらく私はただ休みたかった。とにかく疲れていたのだ。
書店の仕事はとっくに辞めていたし、お金のことももうあまり考えられなかった。
実家にはもうお金がなかったが、これからどうしたらいいのかも分からなかった。
私は亡くなったジョンヒョンのことを考えた。私が苦しんでいた時期、彼も苦しんでいたことを知った。彼は亡くなって私は生きていて、ただ当たり前のことが不思議に思えた。痛いほどに寒い冬だった。
私が東京にいた頃SHINeeは日本でよく活動をしていて、度々ライブに行っていた。お金がないからなかなか遠征や複数の公演に行くことはできなかったけど、来日公演があると必ず一度は足を運んだ。
ここ数年大変だったとき、高校生の時から知っている彼らが活動をしている姿を見ると一緒に人生を歩むような気持ちになった。
とくにジョンヒョンは好きなメンバーで、真摯で優しい彼の音楽がとても好きだった。
彼が亡くなったことを受け入れられず、そして自分に今起こっていることも受け入れられず、ひたすらに泣いて過ごした。
寝ることも、起きて布団から出ることも、全てが辛かった。
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とはいえ、生きているかぎり生活費はかかる。そうなったら今度こそ稼ぐしかない。
正直なところそこまでして生きたいのかもよく分からなかったけれど、ここから始まったのが「自立」するための闘いだった。
とはいえ、何度も書くけれど、私はいわゆるデスクワークをするような仕事の応募の仕方がわかってなかったし、自分は世間から見れば「大学を出て就職しないまま数年ぶらぶらしていた人」なんだと思い、とにかく自信を失っていた。
とくに求人募集に出ている条件の「社会人経験3年以上の人」の文字を見ては萎縮していた。正社員どころか派遣の求人募集を見ても、自分が応募していいとも、その仕事ができるとも思えなかった。
そもそも今まで周りで「サラリーマン」をしている人を見たことがなかったから、何をすれば良いのか全くよく分からなかった。
結局、体調も優れないので家の近所の歩いて通える距離で仕事を探すことにした。
まずバイトを探す要領でネットで求人を見つけ、年が明けてすぐに応募して合格したのが近所にある処方箋薬局の事務員の仕事だった。時給は1100円で、今まで働いてきたどの仕事よりも時給が良かった。
計算してみるとその給料で生活費を賄うのが難しいのは目に見えていたけど、とにかく働くしかなかった。
薬剤師の人たちを除いた事務員はほとんどが子育て中の女性で、子供が学校に行っている時間に「パート」で働きに来ている人がほとんどだった。
その中で一番若く、そして子供もおらず、彼女たちからしてみれば娘に近いような年齢の、フルタイムで会社員をできるような私がそこにいることが不思議なようだった。
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「事務」といってもずっと立ちっぱなしの仕事で、患者さんから保険証やその他の書類を預かってパソコンに入力するだけでなく、電話対応にレジ会計、薬の発送、健康食品の販売、ドリンクを作ってのサービス、備品の発注、そして待合室やトイレの掃除など、仕事はたくさんあった。
特に私が働いていたのは同じビル内にある4つの病院から患者さんが流れ込んでくる忙しい薬局だった。人出のない時がなく、いつも待っている人がいてとにかく慌ただしい。待っててもらう患者さんに渡す番号札が全てなくなることもしょっちゅうだった。
そんななか本社は「薬剤師が開発」という名目で作られた青汁や化粧品など、自社のプライベート商品を患者さんに販売することも事務員に課していた。
売れ行きを見ていると高齢の方が買って行かれることが多く、なんだかいらないものを売りつけているようで良い気持ちはしなかった。
薬を待っているのにいつまでたっても来ない、そんな時に健康食品の販売なんていらないよ、と正論で怒られたこともあった。
当然私の業績は全く振るわず、というよりもほとんどの時が極端な人手不足で販売業務をできない日の方が多かった。
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残念なのが、それだけ働いても一向に暮らしは楽にならず、それどころかその給料だけで暮らしていくのは不可能だったことだ。体力的にも週4日働くので限界で、途方にくれた。
そして考えたのがライターとしての仕事を増やすことだった。
まずニューヨーク大学の分校で勉強をしていたとき、友達と「シスターマガジン」というマガジンを運営していた。おそらく2016年当時ではまだ珍しかった、20代による日本語でフェミニズムを扱ったメディアだった。
それがきっかけでいくつかメディアに取り上げられたり、ライターの仕事を貰ったこともあったし、「会社員として3年」の「社会人」経験はないけれど、当時それが私の中で一番キャリアがあるものだった。
かといって、現実は厳しく、それだけで仕事が舞い込んでくることはない。他の国だったらまた違ったような気もするけれど、日本では現状、こんなもんだ。
とにかく少しでもライターとして仕事を得る足がかりになればいいなと思い、とっつきやすいようにと自分の状況を少し戯画化して書き始めたのが、このブログだった。
とにかく私は書き始めたのだ。
⑦に続く
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