飲食店で働いてみて思い出した母の話
- Tsukasa
- 2020年5月30日
- 読了時間: 4分

今日は仕事2回目の出勤。
夕方5時前から10時前まで、約5時間の出勤だった。
10時過ぎに家に帰ってきてスタッフ用に渡されたご飯を食べ、なんとかシャワーを浴び(日本だったらお風呂に浸かりたかった泣)、もう寝る元気もないくらい疲れ果ててる。
とにかく忙しくて、今日は水を飲む暇もないくらい常に動き回った。終わりがけにワイングラスを磨くのを頼まれたのだけど、急に立ち止まった瞬間ふと意識が飛びそうになったほど。
昔から低血糖気味なので、5時間のあいだ何も飲み食いしないで動き回るのが本当にきつい。今も頭がガンガン痛くて吐きそうだ。
とにかく、レストランは想像していたより本当に大変。
接客は楽しいと思う瞬間はあれど、飲食業界で働き続けること、自分にはきつすぎるんじゃないかと、すでに気がつき始めてる。
おまけに私の働いてる店は若干高級志向なので、出す皿(たまに石だったりする)がいちいち大袈裟に大きく、尖ってて重く、何度も運ぶのが本当に疲れるんである。
でもやっぱり店を変えたところで、基本的な大変さみたいなのは変わらないかなと思う。
今まで当たり前のように外食してきたけれど、そこで働く人たちはこんなに体力勝負だったのかと、恥ずかしながら今さら実感してる。
それと同時に、疲れ果てて家に帰ってきてベッドに寝転んだとき、ふと母のことを思い出した。
母子家庭だったので、思い出せるかぎり母は本当によく働いていた。私が小学生だった頃はたしか、回転寿司屋で働いてたはずだ。それも、少なくとも2年以上。
私からしたら、飲食店で働き始めてたった2回目の出勤でギブアップ寸前なのに、よくそんなに働いたものだと思う。
それからは娯楽施設の受付・清掃と介護施設でヘルパーをしていた。仕事をふたつ掛け持ちで、おそらく一日12時間以上くらい働いてた。
しかもその娯楽施設は親戚が経営していて、彼らにいいように使われていた母は最低賃金以下で働いていた。
そうすると介護ヘルパーのほうは結局はパートタイムになるから、いくら一生懸命働いても正社員のような待遇を受けることはなかった。
当時は良いほうだった時給900円で利用者を風呂に入れ、利用者がそこで排泄してしまったらその処理をしていた。結局それで腰を悪くしてしまった。
当時私は娯楽施設の仕事を辞めて、せめてヘルパーで正社員になるべきだと何度も言ったけれど、親戚に悪くて辞められないと話していた。「親戚だから」と。
その後、娯楽施設の経営は悪化し、閉店が決まり施設は取り壊された。10年以上勤めた母には退職金など支払われず、労いの言葉さえもなかった。母が毎日綺麗に掃除していたトイレも、跡形もなく消えた。
こんなことなら早く辞めればよかった、あんなに一生懸命掃除するんじゃなかった、とただの更地になったその場所を通るたびに言っていた。
こうして当時のことを振り返ってみると、私はあのときもっと母に優しくするべきだったんじゃないかと思う。
でも当時私にとっての親は母一人だった。それなのにすぐに私に当たり散らし、嫌な気分にさせ、それさえ数分後には忘れているという、母の子供っぽい言動が嫌でしかたがなかった。
親なんだから、すでにハンデのある受験で大変な私をせめて精神的にサポートしてくれよ、何で加害するんだ、と思っていた。もっとマシな家いくらでもあるのにこんな家に生まれて大変なんだから、と。何度も怒った。
でも私は結局、母がそうやって稼いだお金で塾へ行くことができ、大学に入った。
そして私は大学で学んで知識を得たことで、母の無知からくる差別的な言動を許せなかったりするのだ。ちなみにこういうことは移民二世の「あるある」話らしい。
とにかく、あのころ私は今よりもっと若かったし、常に怒っていた。
でも、母があの生活を10年も続けたのも本当のことなのだ。私が数回で投げ出すような仕事を。
今はそのあとブログに書いてる通り、色々あってこちらに来てからほとんど連絡を取らなくなった。正直一緒にいるより楽だ。
ただ、覚えていたいと思ったので書いてみた。
当時、私はいつも怒っていた。母が親としての責任を果たしていないように思えたから。
だけど、私たちが抱えていた不利益は、個人で解決するには限界があったのだ。
今ならそう、わかるのだけど。
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