top of page

ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」

途中になっていたケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」を読み終わった。感動して、私はいまこの文章を書き散らそうとしている。なんなら、書きたいスピードに入力する手がついてこないから手書きでノートに走り書きしようかなんて思っているところだ。

「ヒロインズ」に登場する「ミューズ」にされ、「偉大な男性小説家」の物語の中に閉じ込められてしまった女性たち。自分で物語を語ろうとすると、それは取るに足らないことだと言われ、声を封じ込められる。


なぜなら、物語のキャラクターには作者の思った通りに動いてもらわないと困るからだ。それなら、と彼女たちは自身でその作者になろうともがく。


しかし彼女たちはふたたび搾取され、心身の健康を奪われ、最後には名前を消される。たとえば私はもう二度と同じ気持ちでスコット・フィッツジェラルドの作品を読むことはできないだろう。読むことさえないかもしれない。


「グレート・ギャツビー」を読んだとき気に入っていた一節は妻、ゼルダのものだった。私は無意識のうちに時を超えて彼女の一部、または亡霊をキャッチしていたみたいだ。


訳者西山敦子さんのあとがきにもある通り、この本は北米やヨーロッパの白人女性ばかりが登場するし、男性と女性、妻と夫、と二元論的でとてもヘテロセクシャル的に構成されている。

しかし、スコット・フィッツジェラルドやT・S・エリオット、「世界」の「偉大な文学」の大スキャンダルとも言えそうな出来事より、今日になっても彼らの作品がどれだけ優れているかということのほうが圧倒的に語られているのだろうと想像すると寒気がする。白人でヘテロセクシャル的な女性たちの物語でさえ、そんな目に遭うのだ。


この世にはどれだけの「ヒロインズ」な物語があることだろう。大学で英米文学の授業を取っていたころ、スコット・フィッツジェラルドやヘミングウェイなど「偉大な男性小説家」たちの物語は「キャノン」として読まされたが、ゼルダのゼの字も教わらなかったことを思い出す。


そしてこの本を読むとその「キャノン」がどれだけ彼らの自作自演によって作られたかということもよく分かる。残念ながらまだこの世のほとんどは彼らの思惑通りに動いていて、そういったことはこれからも続いていくのだろう。


だけど、同時にこの本は私たちが自分で自分の物語を書き、そのヒロインになることでそれに対抗することが出来るということを教えてくれる。


私のこのブログだって、たとえ取るに足らない個人的な話だと言われたって、自分のことを信じてしつこく書き続ける。たとえ「キャノン」や「超大作」の輪には入れず、周縁にいたとしても。私の物語は消されないし消させはしない。私は「ミューズ」になったり誰かの物語の登場人物ではなく、私がこの物語を語るのだ。


クールな文章にキレキレの訳、すてきな装丁にイラスト。最高の読書体験だった。あと、何かと体調が悪い女性たちはこの本を読むとなんとなく理由がわかるのじゃないかという気がする。おすすめです。

「それな!」とかぐっときたページを折ると、こうなったの図。

Comments


bottom of page